近世茶道史8 大名茶道の定着

遠州の後、武家に爆発的に広まったのは石州流。
会記から石州の茶を検討するが:

小座敷の道具組みはさほど目立ったものではない。
ここだけで終止すれば、わび茶の範疇で語られるものであろうが、なお書院にうつって
茶事が続けられている。
書院では右のように三幅対もしくは五幅対がかけられることもあったらしいが、ここでは道具も、特筆する程のことはない。小堀遠州が書院に新たな価値を付加し、多くの道具を飾りつけていたのに比べると、意外なほど簡略であった。

石州の茶は侘びの小間+地味な広間という「地味な遠州」ぐらいのものだった様だ。

おもしろいのは、石州の会記を年齢順に並べると、趣向が変動していっていることで、極侘びなのは50代の一時期だけだという。

石州における茶会とその茶論を順次みてきたが、この両者を比較して気づくのは、その甚だしいギャップについてであろう。
「石州侘びの文」にしろ「一畳半の伝」にせよ、石州におけるわびの真髄を述べているのだが、現実の石州の茶会記に、そのような会を見出すことは困難である。
もちろん、石州は宗仙から伝をうけていたのだから、一畳半の茶室での茶事をおこなわなかったとは思えない。ただそれは公式な場での茶の湯ではなかったであろう。
将軍家茶道師範であるかぎり、諸藩の大名達の範ともなるべき茶のスタイルでなくてはならなかったである。

石州が大名達に茶の湯を指導するにあたっては、侘びは理念に留まるものだった、という指摘は面白い。

最後に、石州が大和小泉を領する一万数千石の小大名であった故にあらわれた現象についてふれておかねばならない。
石州門下から、多くの分派が生まれたことについてである。

石州は、趣味人の大名でもあるが、他の大名、特に自分より身上の大きな大名に対して家元として君臨できないし、その部下の茶堂に対してもコントロールはできない…二重の支配になるもんね。だから完全相伝しかできなかった、ということか。