戦争と茶道2 茶と禅

だが是等の事實と、後のわが茶祖珠光がもと禪僧であり、更らに利休を始め茶界高名の巨匠が多く大徳寺に參禪せることから、既に鎌倉時代から點茶の法が相當整備せられ、その理念も禪即茶、茶即禪などと好んで一概に論じ去らんとする者も見受けるが、事實茶道の理念に禪の教理の介在することは否みがたいけれど茶即禪、若くは禪即茶では決してないのである。

いきなり茶即禅/禅即茶の否定である。

即ち禪はひたすらに別け入る生死出離の悟道であり、茶は生活に規準を輿へ、教養を高め、人間を完成に導く藝術でしかなく、唯だややもすれば動き易き心を常念につなぎ、而も行動はかの水鳥の跡なき如く、この世に自由を得んことを期する點に於てのみ歩みを同じくするものであるからである。

私は茶即禅は、思想のない遊芸と見られたくない茶側の事情と、金の欲しい禅側の俗な事情によるWIN-WINがあった、に過ぎないと思っているので、この見方には賛成。

在家で茶点ててるだけで禅とおんなじだったら、禅寺存在意義ねーもん。