若き日の利休4 侘びのみち

第四章では侘び茶の浸透に関して記述している。

「クドガマヘ」のみをし、これを紹鴎構へと云つたのは、自ら敢へて麁相の生活に赴き、奢らぬ樣を示す「しほらしさ」を持たうとした事であつた。
これが「侘數奇」と世に云はれてゐたのは、世の富貴とは異り、反對にある自らの姿を定めてゐたのである。
それを指導するのが、現に富貴の地位にあつた紹鴎であつたのは面白い風景で、水に浮く鴎は、自ら静かにあるとは云へ、渚に立つてこれを見る人の瞳をあつめてゐたのである。

金持ち紹鴎が侘び数寄を指導した…という具体的な証拠はないまま話は進む。
西堀さん思い込みハゲシス。

さて、四章では他の茶人にも言及が。その代表格として紹介されているのは紹鴎の弟子山本助五郎。

その群集の中に山本助五郎なる人があつた。紹鴎の「一ノ弟子」と宗二が傳へてゐるのは確かに一方の音頭をとる人であつたからである。
(中略)
この人の事蹟としては、更に次のやうな事が傳へられてゐる。
それは、當時天下に一つであつた二疊半の茶席を好んだことと、開山の蓋置をもつてゐたことである。

山上宗二記を読む限り山本助五郎の為に二畳半を好んであげたのは紹鴎。

自分の茶室もデザインできない人物が一の弟子、というのも不思議。
というか、一の弟子が二人いて、一人は下手の辻玄哉、一人は自分の茶室もデザインできない侘び数寄というのは不思議な話だ。
とりあえず西堀一三は資料をしっかり読んでいなかったんでなかろうか?

*1

この紹鴎は
(中略)
ひとりして築地のしめりを眺めつつ時を過してゐたのである。
その中に小石をまぜるのは、紹鴎の特別な意志であつた。
かうしておくと、水をかけた時に、そこに露がたまる。
それが鮮やかにキラ/\してゐるのを「コビルナリ」として喜んだのである。
(中略)
この言葉は、權勢への諂ひを意味するものとして、後には惡い意に解されてゐるが、それではなくして、純粋に近寄ろうとする人間の情を今は現してゐる。

「古美」を「媚」と合致させる論調ははじめて見た。

濡れた地面大好きの紹鴎…というのはなんか不思議だが:

花入のみでなく、花にも露を持たせるのが利休の風で、露のない花は一切見所がないと云つたのが傳へられてゐる。

これが最終的に花入、花、床の大平を湿らすという美意識につながったという。
いやー知らんかったなー(棒)。

*1:この部分誤認あり訂正