若き日の利休5 新しい美

第5章では竹の花入や蓋置などの新しい風潮を描く。

でも:

上にある人々が奢侈を好むことは、その競ひを上下の間に生んだ。かの應仁文明の亂の如きも、義滿が花の御所の生活をした時に既にその原因をもつてゐると云はねばならない。
(中略)
その結果を十分經驗した後に新に考へられたのが今の土壁の床の間であつて、これは、金閣銀閣の生活を世の武士がなさんとした事に引換へ、新しく考へられた社會生活の構造を示すものと云はねばならない。

それは考え過ぎだと思うの。
侘び茶の発展…という面を見過ぎて桃山時代の絢爛さが見えていないんじゃなかろうか?

紹鴎以外に、堺の茶人として知られ、又天王寺屋を稱される豪商であつた津田宗達、又その子宗及が、この風に同感したのは、世の富人を新に導くものであつたが、それと同時に、世の富貴に反對の心をもつ人々も、萬人が等しく至りうる生活又これに新しき美を見ることに自ら同感したのである。

宗及はともかく、宗達の趣味はぜーんぜん侘びてないと思うが。

この永録の當時は、既に紹鴎のなきあとで、利休が世に活躍してゐた時であるが、その時に、唐物のいらぬ數奇が世の風潮となつてゐたのは、紹鴎利休の考へるものが、新に、世に行はれ、少くとも、堺の市民を中心とする動きにあつては、その風が既に定められるものとなつてゐたのを知るのである。

この文章は非常に大事だと思う。

つまり、この本の変な史観は

  1. 茶の湯を侘びさせたのは紹鴎と利休
  2. 紹鴎→利休という道統。
  3. 利休は秀吉に従う前から茶の湯のリーダーだった

という事が大前提にあるんだよな。

  1. 紹鴎は侘びの茶人では無い。
  2. 利休は紹鴎の直弟子ではない
  3. 利休が利休の侘び茶を展開できたのは天正10年以降秀吉のバックアップによる
  4. 天正10年前に侘び茶が流行していたのは利休のおかげとは言い切れない

が本当っぽいのだが、それだと茶聖利休にとって不都合、という事なのかもしれない。