若き日の利休3 紹鴎と利休

若き俊英の利休を、紹鴎は可愛がったと著者はいう。

かうした新しい性情をもつ輿四郎に、紹鴎は却つて頼もしい心を感じたであらう。
前の時代の人は、それ/゛\の心に結んだ實をも、いつしか地におとしつつ、末知らぬものとなつてゆく諦観をもつたのであるが、この輿四郎に接することは、新しい畠に種をおろすやうにも思じゃれたに違ひない。
その種に自ら潤ひを輿へ、新しく青き芽を出す土の力をも持つてゐる。
この時にあつては、それ/゛\の心の種を惜しみなくこの新しい土にうつし、明日の光線の下で、如何に育つてゆくかを試むべきではなからうか。

って、これほど一切根拠の無い著者の妄想を長く書かれるとびっくりしちゃうね。知らんがなって感じ。

さう思つたに違ひない紹鴎は、この若き利休にあててその心底を殘りなく語つてゐる。
これが、今の世に傳へられてゐる「侘びの文」である。

唯一根拠らしい部分が「侘びの文」か…。
利休を語るのに南方録と紹鴎侘びの文をベースにされるとさすがにきっついが、面白いのは確か。
この2作が文学として優れている証拠でなかろうか。