若き日の利休6 紹鴎の死後

第7章は紹鴎の死後の話。
第6章「簡素のすがた」は、タワゴト感ハンパないのでさすがに回避。

さて、紹鴎の二人の「一の弟子」辻玄哉/山本助五郎が茶の湯のリーダーにならなかった点につき、こう語っている。

それを思ふと、各々一の弟子とされる人があり乍ら、利休の意による茶の湯が、世を新しくしたのであつた。

茶の湯には道統がある、という発想がないと理解しづらい。

茶の湯のリーダが紹鴎→玄哉でなく、助五郎でもなく、利休へと受け継がれたのは、利休が弟子の中で優れていたから…ということらしい。

茶の湯には道統なんてないのではないか?ある時期紹鴎に人気があって、しばらくして利休に人気が出た。それだけのことではないだろうか?

紹鴎門下の事情としては、玄哉や山本助五郎のみでなく、その弟子に今井宗久が更にあつた。
(中略)
その弟子のうちの一人が、娘婿である地位にあり、事實上師家を嗣ぐに至つたことは、利休にも大きい影響を輿へたこと疑ひない。
それに至るまでを假りに想像すると、紹鴎の娘である人を前にする利休と宗及のことも考へられる。然し、實際は宗久が見込まれたのである。

利休が紹鴎の跡を嗣ぐ以上、武野家を嗣がなかったのはなぜか?という発想。
これは茶の湯に道統があって、且つ、道統は家に帰属するという家意識に基づく。正直現代人には感覚的に理解しづらい。

利休は紹鴎の精神に従つて侘の道を考へやうとしてゐた。
それは、本來物をもつものであつても、富貴の意を去り、萬人の為の道を考へんとすることである。
然し、その師が亡くなつて後、かヽる精神の指標は大きく失はれていつた。
嘗つて同輩であつた今井宗久の現になす所は、決して侘數奇の意に合ふのではない。

利休が武野家を嗣がなかったのは、富豪武野家を嗣ぐと侘び数寄としての美意識が損なわれるから…と言われても、もうね…。

紹鴎を利休を、侘びた聖人として描こうとしようとすればするほど、現実と乖離していく。

西堀一三は、どうしてそこまで利休を神聖視したのだろうか?

戦前の茶道の俗なのを嘆くあまり…という風に考え過ぎるのはちょっと西堀一三的かもしれない。