瀬田掃部の茶入

瀬田掃部は大ぶりの茶杓を作ったことで有名。

南坊録の解説だと、所有していた大きな皿の様な高麗茶碗に利休が「水海」という銘を付けてくれ、その際に「勢多」という茶杓を贈ってくれた。その茶杓を見本に作ったから、瀬田掃部の茶杓は大きいのだという。

確かに茶碗が大きければ、さし渡す必要のある茶杓も大きいものを使わざるを得ない。
水海は畳十五目の茶碗と伝わるので、勢多は前後に1cmぐらい余らせるだけとしても24cm。長い。


しかし、そういう大ぶりの茶杓だと、必然的に櫂先も大きくなってしまうと思うのだが、どうなんだろう?


櫂先が大きければ、茶の汲む量も変わるが、それ以前に茶入の口に入るかどうかか問題になりそうだ。
瀬田掃部の茶入の口は大きかったのだろうか?


そういえば伝来に瀬田掃部の名が茶入がある、というのを聞いた事がない。


茶碗が「水海」、茶杓が「勢多」、茶入が内海ではやりすぎだと思うんだよな。