茶道支那行脚3 茶道

中国通の著者が語る中国の茶の湯は、日本の茶の湯への間接的な批判として読むことができる。

茶道と云ふと無暗みに上品ぶつたものと見たり、むつかしいものと考へたり、又實生活から遠ざかつたものであるとする傾がある。
けれども支那では別段八釜しく考へられてゐるやうではない。
これが職業化して來るときは、何んでもないことまでも八釜しくむつかしくして了ふ恐れがありがちである。

日本の茶の湯は難しく言い過ぎ、なのかもしれない。

陸羽の茶経の中には、茶は南方の嘉木なとして之が種類を五つ舉げてゐるのを見る。
即ち、
一に曰く茶(早取のもの)
二に曰くカ*1(苦茶なり)
三に曰くセツ*2(蜀の西南、茶の方言なり)
(略)
などと數多あることが示されてゐる。
がつまりこのうちどれでもよいとしてあるらしい。
その邊は自由である。
(略)
茶道は文字の上からは茶、茶と茶に拘泥して考へらるるも、その茶なるものが移り行くそれ故に茶を通して得る一種の幽幻なる心境これにあるのである。

いや、いい事を云っているとは思うんだけど、著者本人が中国にかぶれ過ぎて大雑把になっていないか?いいけどさ。

*1:木偏に賈

*2:草冠に設