茶道支那行脚2 序文

著者の自序より。

かく云へば茶道はその生活線上から幾分でも超越し得るもののみの占有する天地なる如く取らるヽ嫌ひがある。
けれども事實上、茶道はたとひ米鹽の資に窮する如きものにしても、その人の氣持の持ち方次第ではいかやうにとも之に浸り得るものである。
(中略)
支那は大国であるから下層民の間にまでも氣分にゆとりのあるものがどつさりある。

戦前戦中と言うと中国を見下げた発言が多いのであるが、この著者は違う。

茶の湯をするゆとりが、戦地の中国でもたっぷりあるよ、というのである。

決してその身分が高いから茶をやる、富有であるから茶道に親しめると云ふわけのものではないのである。
この點は日本ではひどく穿き違へられてゐる。
(中略)
そこに茶道の美質と高雅な趣味性とがある。

身分相応にそれぞれの茶を続けられる、という意味では、日本よりも中国の方が上とも言えるのかもしれない。

後には「一億火の玉」みたいな事を言わなきゃいけなかった日本に比べると、戦中の中国人はずっと余裕があって、もしかすると戦争慣れしていたのかもしれない。