茶道支那行脚4 茶禅一味

著者の茶禅一味の境地に関する考え。

茶を烹てゐるから茶道であり、經を誦じてゐるから禪であると云ふ見方はあまりに單純な見方である。月下、山寺に香をたいてゐるときであつても、庭に逍遥してゐるときであつても、いつも同じわけであるのだ。

ここまでは普通。

電車に乗つてゐようと、バスで飛ばしてゐようと、飛行機に乗つかつてゐようと、すべて同じわけなのである。
豈、ひとり茶道と禪のみが同一な味のするものだと限定し得られようか。
しかしさう何もかもこヽに列べ來たるわけにもまゐらぬ故に、まづ似たやうにとれる茶と禪を持ち來たり、かやうに茶禪一味と云つたまでである。

著者の達観は茶と禅に限らず、なんでもかんでも一味なんじゃないか、と考えている様だ。

茶道の心得なき人が抹茶の席へ呼ばれ、玄人らしき人のみ居ならぶ中でガブのみをする。
(中略)
ビクビクして細い線しか持ち合はさない人が心配さうに呑んでゐるのを見るよりか、どんなにこの素人の人の方が痛快であるかわからぬ。
(中略)
悟り來たらば茶道など云ふ道のないのも同じ事になる。勘破すれば禪機も何もあつたものではない。すべて皆これ空だと云ひたくなる。
つまりは人間が出來てしまへば何をどうしようと同じわけである。
コセコセした事を云ふでない。
眞如の月のやうにやつたらよいのである。
(中略)
茶道にあつては、支那ではさうその日本のお茶人の云ふやうに、八釜しき文句は云はぬ。

達観によるおおらかな境地にいるというべきなんだろうか?
単に大陸慣れしてめっちゃルーズになっているというのでわ…。