茶道支那行脚9 茶と世道
茶が社会に与える「気分」について。
支那を南船北馬して四百餘州をあるいてゐるといふこと、そこには一木一石といへども茶趣味の方から眺めることも出來る。
(略)
又乞食を見ようと、兵隊を見ようと、易者を見ようと、僧侶を見ようと、そこには何となく茶の氣持が禪味として表現されてゐる。
ここに東洋精神の培はれてゐるものがあるやうに思はれる。
乞食は侘びであり、易者は陰陽五行であり、僧侶は仏道であるから、理解できなくはない。兵隊は難しーなー。
元來云ふと、一から百まで國家思想とか、法律思想とか、力の政治とか云ふもので押し通されている國柄であると、そこに少しも茶道の氣分とか禪味氣分とか云ふものは芽を出して來ぬ。
芽を出し榮えて行くゆとりさへも生ぜしめぬ。
ところが支那のやうな國柄であると一方にいくら政府が存在してゐやうと、そこに自由の天地がある。
心の赴くところ、風流の道になり、宇宙の大をつかむ道であり、すべてその人々の自由で如何やにとも境地を開き得る。
法から入つて法を超脱し得る。
そこには天地の一大哲理に合致した大道を歩み得る。
こヽである。
そこには國家だの、政府だの、法律だの云ふ考へ方から、全く別に永遠の世界、絶大の天地に遊ぶ事ができる。
中国の天地が「押し通さない」国柄であるならば、「押し通す」国柄はどこだろうか?…昭和12年としてはかなりギリギリ感のある表現かも。
あと、共産中国でなかった戦中の中国は、今よりはずっと大人の国だったんでしょうなぁ。