茶道支那行脚10 茶と世道2

著者による日本の茶の湯批判は、概ねその線の細さに集中する。

世間で茶道を考へるのは、とかくお茶の道具を取り揃へることとか、茶室を用意することとか、やれ文琳の茶入れの、利休の茶匙の、やれ袱紗さばきの、お稽古日のと云つた風の事のみにあたまを使ふ。
而もそれが茶道の全部なるかのやうに思ひ込んでゐるものがある。

日本の茶道はこまごました事に気を遣い過ぎであると。

甚だしいのになると、茶道具や茶掛けの軸物の高價なものを集めて、自慢をしたり又つとめて田舎屋式の下手もののみを無理に集めて得意になつたりするのもある。何もわざわざ不自然の事までしなくともよろしいのである。

そして、戦前の数寄者の所業にも筆は及ぶ。ちょうど森川如春庵を中心に古民家の茶の湯が流行った頃でもある。

唯こヽに注意すべき事は、茶道を修めんが為めでその人が却つて小さい人間になり、線の細い人間になり、つまらない神経質の人間になつたりすることのないやうに戒めなくてはならぬ事これである。

茶の湯に関し、茶禅一如とか言うのであれば、こせこせするのはおかしいんじゃないか?というのが著者の問題提起であろうか?

その法式技巧は之が師匠として立つ者には大事な事であらう。
凡そ何事にもその慣習、しきたりがあり、型も出來てゐるべきである。
けれどもその為めに一にも二にも型に囚はれ、人間がその茶道の型の内から一歩もそとに踏み出し得ないやうな事になつては考へものである。
むしろ始めから茶道になど踏み込まなかつた方がよかつたと云ふ事になる。

茶の湯をすると小さな人間になるのなら、人を大きくする為に茶なんかすべきでない、というのは極論であるが、茶禅一如という文句の矛盾を鋭く突いていると思う。