茶道支那行脚11 支那の卓茶

著者は、日本は線が細く、中国は線が太いと連呼する。

同じく東洋の茶趣味、東洋の茶道と云へば日本も支那もたいして區別のないものの樣に考へらるるが、實際に於いては日本の茶道の濃やかで、且つ繊細な方面に心を配られるに對して、どことなく支那の方には線の太い雄渾な気持が強く感受せられてゐるやうである。

では「線の太い」中国の茶とはどういうものか。

斯道は、絶對に清潔そのものが大きい眼目とされてゐる。
日本人としてはこれは當然の考へ方でそれを考へに入れぬやうな人は、つまり茶道から破門せらるる譯にもなると思はれる。
ところが支那では、時と處にもよることながら、概して、潔癖などと云ふ考へ眼中にない。

「ところが」以降嫌な予感しかしない。

支那は江南、浙江、杭州西湖畔の或る茶館で日友人と聚餐しながら樓上で語り合つてゐたことがある。
その前友人の一人が卓上の茶瓶の茶がぬるくなつたのでボーイに命じて熱いのをさして來いと云つた。
ボーイは命ぜらるるがままにその茶瓶をすぐさま取つて持つて行つたものだ。そこまではよろしかった。
ところが廊下まで持つて出たと思ふと、やつこさんその手に提げてゐた茶瓶をやをら持ち上げた。見てゐると顎を上に向け唇邊りまでそれを持つて行くではないか、やがてその蟇のやうな口角を開いたと見ると、気持よさげに茶瓶の口を口中に挿入する。さもうまさうに、のども渇いたものか、グイグイと音をさせて呑みながら行く。
(中略)
自分はそんな事に慣れてゐるし、又支那の旅にそれくらゐの事を氣にしてゐては一日もなごやかな行脚欲は滿足せられない。

えーと、えーと、ツッコミが追い付かねー。

しかし友人は神經質にもそれを見てゐたものだからすぐボーイに食つてかかつた。
(中略)
「きたないではないか、ボーイさん。前のはすつかり捨てたのか。あの上にさして來たのか」
「あの上にさして來たのです」
「だつて貴樣は、廊下で口呑みしながら行つたではないか」
(中略)
「だつてカニン(客人)はその口呑みしてゐるところを御覧になられたのですか」
「見たゐたよ。きたないことをしたね」
「それを御覧になられなかつたとしたら、何、きたない事は一向にないわけですなァ」
と嘯く。

仙台の某牛タン屋で、飯盛りしているおねーちゃんが手に飯粒付く度にぺろぺろ嘗めてたのが気持ち悪くて食わずに逃げ出したのを思い出すなぁ…じゃねーよ。

丸でピントの違つた高所大所から云つて、日本人の客と立ち打ちしてゐるのである。
超越しててんで相手にしてゐない樣子で、喧嘩にもならぬ。
(中略)
友人は「きたないやつだなァ」の嘆聲を連呼してゐた。がボーイには勝てないことがわかり、さとつた。
それからあとは悟道に入り、氣にもかけなくなり、平氣になだらかな態度でその持つて來た熱茶を兎も角ついで飲むやうになつた。
これで大陸の第一歩に入門出來たわけである。

「第一歩に入門できたわけである」じゃねーよ。そんな線の太さいらねーっつーの。


しかし、これもまた面白い指摘ではないか。

仏も糞かきべらも同じとうそぶく禅。
その感覚からすると、清潔も不潔も同じもの。

不潔を気にするのはおかしいんじゃないかい?茶と禅ってのは親和性本当は悪いものじゃないのかね?

著者はそう言っているのではなかろうか。