茶道支那行脚12 點茶の無關心振り

支那の人の實生活は、あらゆる方面に線が太く現はれてゐる。
(中略)
第一その初め茶碗を持つて來るとき、八つも十も重ねたままで運んで來る。
そして之を一々卓上におかうとするとき母指を茶碗の内側の方へ入れて持つのだから内部に手の指紋がつくわけである。
そのとき爪に黒く垢がどんなにたまつてゐやうとお構ひはない。
さう云つた持ち方で以つて頓着なしにおいておく。
今少しく茶碗のそと側に指をあてって持つて呉れるとよいがと云つた感じを日本人客には抱かしむるわけである。

安定の「線の太さ」である。

若し客の茶の冷めてつめたくなつたと思はるるときは、すぐ主人の方からボーイに命じて注意させる。
ボーイはすぐ熱いのと入れかへなり、又蓋のまま絞つて熱湯だけをさすなりする。
日本人ならそこら中にこぼすは失禮であるとして他の處でさして静かに持つて來るであらう。
そこに神經質のあたまを使ふ。
ところが支那の人と來たら、そこは平氣で頓着しない。
その代り客がそのさめてつめたくなつたのを持ち上げ飲んでゐるところは決して見てゐられぬ。
そこの點になると、神經質である。
大きな聲して客に向かひ手をあげどうか飲んで呉れるなと云ひ制する。

しかし、味の方では中国人は妥協を知らない。

茶はその温度の點を八釜しく考へるのが支那で、その卓上にこぼすことを氣にし、失禮と考へるのは日本である。
支那と日本人の人種の相違はここにある。

中国人の飲食に関する熱意というのが凄く納得できる。
でも、日本人だって飲食に関する熱意はひけをとらない筈。

つまり、日本では茶道は飲食として熱意を投入すべき対象ではなく、たぶんもっと型式的なものに堕しているのだろう。