茶道支那行脚13 茶館の出入り

中国の茶館について。

されば支那に游び茶館を訪ねんとする者は單なる潔癖本位のカフエー、又そのカフエーのサーヴイス本位のことばかり考へ、そのコツで以つて茶館に出入したならば頓でもない間違ひを生じる。
又失望するであらう。
極端に云ふとよほど悟道に入つたものでなくては茶館に本當によい氣持になり腰を落付けてゐられたものでないとも云へるのである。

例によっていつもの注意書き。

日本人の習慣からすると、人の飲んだあとの茶碗を他の客にどうかして廻はすことがあつたとすると、人が見てゐようとゐまいと、一度は改めて湯を注ぎ洗ひ清めた形にしてそして新たに之に茶を注ぎ客に差し出すのが禮である。
(中略)
ところが支那の人と來たら呑ん氣なものだ。

支那の人ののんきな行状は想像の通りなのでカットしまーす。

日本人が抹茶の方で茶碗を他の客に廻したり又酒席で自分が口をつけた盃をそのまヽ相手に差したりなどしてゐる習慣のあることを考へると何でもない。

急に鉾先が日本へ。

考えてみれば抹茶の回し呑みだってけっして綺麗な風習ではない。
むしろ汚い。

太宰春台をはじめ、汚いと指摘してきた部外者もいた。
それでも汚いと思わないのは「そういう約束だから」に過ぎない。

支那料理店や飯館あたりで見ても前の客のたべ殘した清湯(チンタンおすまし)のおつゆをば鍋の中へうつし入れ次の客には平氣でその鍋からすくひ取つてゐる。
これは支那ばかりでなく日本の東海道の食堂付列車の中あたりでもサラダのたべ殘されたのを込みあつてゐるときなど次の客に出す皿に而かも五本指で鷲掴みに忙はしく盛り入れてゐる。
(中略)
見てゐて之をきたないと感じなくなるやう修養をつむことは茶道の上から必要である。
これが極意かも知れぬ。
日本人もあまり支那の人々のする事を笑つてはならぬ。
どうせ人間のすることにさう浄不浄のさかひのかつきりと立つものと考へるのが間違ひである。

度合の問題、見えているかの問題なので、あまり支那を笑わない方がいいよ、という指摘は、よく考えたら結構恐いね。

だって我々は「抹茶の回しのみを汚いと感じなくなる様修養をつんでいる」わけなのだから。