茶道支那行脚14 支那庭園と文字美

本書の後半は、中国庭園と日本庭園の比較論になっている。

庭の様式自体は地理、気候の違いがあるので当然違うわけだが、意外な指摘もある。

又その折角、財を傾け、腦漿を絞り、設計の上に設計を練つて作りあげた庭園の事であるから、之にふさはしいだけの稱呼雅名を命ずることは當然なさるべきことである。
日本ではやヽもすると、その建築物、殿堂、樓閣の方には、名を命ずることあるも、その庭は之を附属的従属的のものと見てゐる為めでゞもあるか、之に何園何々園と云ふ稱呼を付くることは少ない。

日本では庭に対し命名がされていない、という指摘はちょっと面白い。

これは又日本の名園で、歴史來歴のある相當な名園秘苑にしても、之に石碑の建立せられたものと云ふと存外少ないのである。
當然あるべき處にでもそれのないのが普通である。
庭の持主も、造園家も、又この庭に遊びに來る雅客にしても三方揃つて皆文字のことになると尻込みをする。

石碑の美文で飾ることも少ないという。

私の記憶でも実用中の庭に関し石碑関連に関し読んだ事があるのは以下の文程度。
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20100527
ろくなもんじゃない。

文字のことになると、三方互に出さぬやうにして差し控えてゐるやうな形が見られる。
そこで命名が一向にないことになる。
その庭全體を呼ぶ園名のないことは勿論、園亭の名、池泉の名、森の名、茂林の名、石橋の名、丘陵の名すべて一向に考へられてゐない。
その為め支那庭園を見た目で日本の名園を拝見するとしても、富者の令息に名前のつけられてなくして、のらぶとりにさせてあるものに面語するにも似た感じがし、殺風景に思はれる。物足りないこと夥しい。

確かに、庭のそこここにある物に命名していく、という習慣は日本にはない。

茶人なんて銘付けまくりの生き物の筈なのに、ちと不思議。

もしかするとだけど、あまりいろんなものに命名すると伝えたい焦点がボケるとか、くどくなるとか考えているのかもしれない。

あるいは自分の詩心に自信がないとか。…こっちの方がありそうか。