茶道支那行脚15 楊柳と庭園情緒

中国の庭園では楊柳が特別な木として植えられているという。

支那の庭園は大陸の縮圖たらしむるやう努められてゐる。
殊にその雲根を想像せしむる岩をあまた集めた太湖石の岩組みにいつも腐心したり、洞窟を出現せんとして見たり、西湖の寫した大畫になつて見たり、中々に意匠をこらしてゐるのである。
楊柳の如く大陸人の情緒にピツタリ來てゐるものをその毎日眺むる庭の中へ採入れないなど云ふことは始めよりあり得ないことである。
(中略)
雅客の來たり、庭園を逍遥し、風にゆらぐ柳絮の人衣を襲ふあたり趣は決して惡くないものである。
その柳絮の氣分は支那文人氣分とそつくり合致する。

楊柳の自然な木陰で休む事が、文人気分を醸し出すという。

支那大陸では特に之を尊ぶとか之に敬意を表するとか云ふ心持があるのでもあるまいがその庭木としての楊柳に鋏を入るヽことだけはせぬ。

そして楊柳は自然なままに生やすのが秘訣だという。

柳もし霊あらばうるさい日本だなあ、又鋏を腰にして庭師が這入つて來た。日本に生れず大陸の江邊にでも生まれたとしたなら思ふ存分枝も張り楊樹を牧童に味はせ、自他共に生を全うすることが出來たであらうに。日本の庭ほど窮屈な又自然性をチヨンギラるるところはあるまいにのう、とかやうに囁いてゐることであらうと思ふ。

だからといって楊柳に感情移入する必要もないのだけれど。

自分は日本の庭や帝都お堀り端の楊柳を見るたびに柳からかヽる注文述懐のこゞとを聞かされてゐるやうな氣がしてならぬ。
本當に日本では鋏を入れ過ぎてゐるやうに思ふ。
今少し呑んびりと十分に茂らせて見たらどうであらう。

刈り揃えた植物では出せないおおらかな風情が文人趣味には必要、という事なのかもしれない。

しかしなんですな。

日本の茶もある程度は文人趣味の影響下にあると思っていたんだけど、実際の方向性は全然違うのね。不思議不思議。