茶禅一味
茶道支那行脚を読んで、禅についてふたつの疑問が出た。
まず第一に、日本の禅と中国の禅は違うものでは?という疑問。
道教的な素養が日本人にはないので、わけが判らないことをわけが判らないままに納得するという中国的なおおらかさが不足しているかもしれない、という疑惑といってもいい。
第二に、禅と茶は本来親和性低いのではないか?という疑問。
「和尚樣、和とは何ですか?」
和尚無言で殴打。
「和尚樣、敬とは何ですか?」
和尚無言で拳を掲げる。
「和尚樣、清とは何ですか?」
「ウンコの事よ」
「和尚樣、寂とは何ですか?」
和尚奇声をあげる。
臨済宗で和敬清寂を問答するとこんな感じになるんじゃないか。
これを茶に転用してもなごやかな雰囲気にも厳粛な雰囲気にもほど遠いお茶になりそうな気がする。
室町時代の頃に、茶を理論武装するに適当な対象が禅しかなかっただけの事なんじゃないだろうか。
もし中国で本邦の茶道が発達していたら、もっとおおらかで適当で線の太いものになっていたんだろうな。