正倉院ぎれ5 正倉院ぎれの出自と用途

私が正倉院に関して知っている事は

  1. 校倉づくりである
  2. 東大寺にある
  3. 国の宝が収まっている

という小学校レベルの知識だった。

本書では正倉院そのものに関しても記述してくれていて、小学校レベルの私には大変ためになったのだった。

さて、いまをさかのぼる一二二〇余年、天平勝宝八歳(七五六)五月二日、聖武天皇が亡くなれた。
そこで光明皇后は夫帝の冥福を祈るため、その七々忌(四九日)にあたる六月二一日を第一回とし、以後天平宝字二年(七五八)一〇月一日まで、前後五回にわたって、夫帝の遺愛品を中心とするさまざまな珍財宝物、香料薬品などを東大寺の大仏に献納された。
そしてこの献納品を収めたのが、前記の東大寺正倉群の一つである現存の正倉院正倉の、北の一室、つまり北倉だったのである。

正倉院のメインは聖武天皇の冥福を祈った国家の宝だったわけか。
こんな話もしらなんだよ。

この正倉一棟だけがこんにちまで無事な姿を保ってこれたのはなぜだろうか。
天災を蒙らなかったという幸運ももちろんだが、それとともに、前記のようないきさつから、この正倉の北倉が、このとき天皇の勅によってのみ開閉される特別十様な倉とされ、そのためにいろいろな人災を免れたということが、もう一つの大きい理由だったと思われる。

収められるものがものだけに、厳重な扱いだったという事か。
でもふつーに考えると、法要のお供え物は寺の財産、だよな。

だいたいにおいて北倉と中倉は勅封、南倉は綱封というのが、江戸末期までの通常の型式だった。
そして明治八年(一八七五)、正倉院東大寺の手を離れ、国家の管理に移ったのを機会に、南倉も勅封になったのであった。

しかし、勅封とかされちゃって、財産というより管理だけさせられた東大寺
千年以上管理させられた挙げ句、例によって廃仏棄釈の嵐の中、正倉院東大寺から取り上げられたのだった。

こりゃ酷いわー。
東大寺自体がもともと国の役所みたいなものではあるんだけど、江戸時代あたりの坊主は、正倉院の存在をどう思っていたんだろうね。