南坊録に學ぶ3 向ひ向はれる人

次に:

「宗易へ茶に參れば、必ず手水鉢の水を、自身に手桶にて運び入らるゝ程に
(中略)
客の目の前にて、いかにも潔く入れたるよし
(中略)
手水鉢の水ためは、小手桶に一つの水にて、ぞろりとこぼるゝほどの大きさに切たるよし、と申なりと答えられし。」

の部分。

解説は

此の大意を申すと──「利休居士はお茶の度毎に必ず自身で
(中略)
──と言ふ意味であるが、しかしこれを、その文字通りに解釋し、その通りに實行してはならない點もあるから、充分に吟味して、居士の言葉の表面を取るのではなく、その心中をよく/\推し量らねばならない。

どないせいっちゅーねん、とか思うが:

さればとて「客の目の前にて」とあるをその通りに解して、客の姿を見て、或は客の面前で、亭主がぞろりと水をいれてくえては、お客の方では、難有いと思ふ心を通り越して、恐縮の思ひが先に立ち、却つて清浄感は薄らぐものなる事を忘れないでほしい。

なるほど。

客の目の前で手水鉢の水を入れ換える、という風習は現代にはない(と思う)。
現代にない風習を、聖典だからとやってしまってはお話にならない、という事か。

…でも原理主義になりきれない聖典ってどうなの?それ。

清澄な水を手水鉢に盛る事は「奔走」の一つであると居士は申された。この奔走と言ふ言葉に就いて一言して置きたい。
奔走とは、言ふ迄でもないが、奔せ走るで、諸方面をあちこちと走り廻る事である。
(中略)
だから此の時代のもので「御馳走に預り難有く存じ奉候」とあつたなら、それは御世話に成りまして難有う、と言ふ意味で、決して海老フライを饗応して貰うた御禮ではない。
馳走も奔走も共に足で馳けずり廻る事である。亭主が自分自身で彼方此方と馳せ廻つて、冷い水の在り所を探し、美味しいトマトを買ひ求め、珍しい御菓子を手に入れ、その眞心で御客を招待する。
それが本當のお茶である。
御茶會はお金でするものではない。口先でするものではない。
足でする事こそ、眞實の「お茶」である。

かっこいいなぁ。
と思うものの、この時代のお茶の問題点が浮き彫りにされていると思う。
料亭の出張料理+茶席での道具批評。そういう時代だったんだろうね。