南坊録に學ぶ4 互に心に叶ふはよし

さればこそ叶ふはよし、叶ひたがるはあしゝ。

の部分。

著者はこう解説する。

双方の氣分がピツタリと合つた、と言つてしまへば、それは偶然に合つたのかも知れないから、それもこの言葉の眞意ではない。

誰がどうやっても叶う様な状況は、叶うとか叶いたがるとかそういうレベルではないと。

例えば富士の高根に登る道は數々あらうし、富士登山を試みる一は巨萬の數であらう。
その人々が何れの登山道から登山するにしても、結局は頂上で顔を合はす事になる。
此の場合は互が叶うたのではない。それは偶然の面會であり、必然の對面である。

富士に登ったら頂上で人に会うのは当り前ではないか、と。

然るに表口から登つた甲と、裏口から登つた乙とが、互に相手の速度を考へて、且つ相手の年齢とか地位とかを考慮して、(中略)頂上で甲がヤレヤレと汗でも拭いて居る時、(中略)その瞬間乙が汗を流しながらそこに到着した、と言つた樣に、乙が細心の注意を以て甲に對したのが「叶ふ」である。
否、それでもない。
此の場合は、叶はそうと努力した所が、いえないのであつて、この努力がなく、ピツタリと一致したいのである。

お互いが相手の気持ちを計りながら登り、顔を会わせるのは一見よいが、実際にはそれは「叶いたがる」でしかないと。

…むぅ、難しい。

結局どうすりゃええねん?
その一番肝心な所は答え無しかいな。


さて。
実例も載っている。

その日のお正客は最近に還暦を迎へて、
(中略)
亭主またそれを壽いで「福壽海」といふ銘の御茶碗を使用し、御菓子は、初夏の事であつたから、時節柄といふ意に事よせて、河原撫子の花を少しく色濃く、わざわざ好んで使用された。
(中略)
お正客にはその亭主の心憎いまでの苦心はよくよめて居つた。
(中略)
花の字にはもう一つ「華」の字がある。「華」といふ文字は之を分析すると十の字六個と一の字とから成る。
(中略)
だからその寓意で以て亭主のその深い且つ巧みな含みのある心遣ひに向つて、微笑を以て答へたのであつた。
然るに、次客がどう思うたか
「お時節柄、河原撫子のお菓子で、お涼しい事で、結構で御座います」
と褒めてしまつた。
時候柄で使われたお菓子ではないに、叶ひたがる心から、何とかして亭主の苦心を買はうとして、此の挨拶を言つてしまつた。
困つたのは亭主である。
それではお正客の長壽をよろこんで、これから使はうとした「福壽海」の茶碗が死んでしまうではないか。

なかなか面白い実例だが、これって叶いたがる…なのかなぁ?
正客がボケて話ができそうもないから助け船を出したつもりだったんだと思うけど。
あと次客が濃茶の拝見の前に菓子を褒めるみたいな手順ってあったのかなー。