南坊録に學ぶ5 露地に打つ水

「露地に水うつ事、大凡に心得べからず。
(中略)
宗及などは、立水心得がたし、何ぞや客をいねといふやうにあしらふ。
(中略)
初終の仕舞、二時に過ぐべからず
(中略)
亭主露地口へまで打出、相送りて暇乞申すべき事なり、と申さる。

ここでの学びは当然「4時間で客は帰るルールなんだから、それに合わせて打ち水するのは非礼ではない」という事。
ま、それはさておき。

長物語があると言ふ事は、一面から言へば、その御茶會が成功して居るといふ反證で、客も亭主も、其の日の催しに頗る興到つて、立ち去るに殘り惜しくついつい、心ならずも長座になつたのであるから、喜ぶべき事であつて、決して悲しむべき事ではない。
去り乍ら、亭主の身になつて見ると、客が長物語をして如何にも興深げに居つてくれる事は嬉しい事であるが、その半面に、茶席や道具の後の片附け物がある事を思うと、もう此の邊で放免してほしいと思ふ事もある。

帰らない客、というのが亭主にとっても困る、というのはよくわかった。
…やっぱ立ち水は追い返す為の物なんじゃなかろうか?

がやつと席を立つて呉れたにしても、またお待合に歸つて「お湯でもいたゞいて」とか言つて、一座の人々に、席中物語のつゞきをやる客に、私は度々、同席さゝれた。
(中略)
思ひを殘して歸る。喜びを味わひつゝ歸る。そこにお茶の味がある。

かっこよく締めてはいるが、単に著者の交友関係の問題だったりしないか?これ。