赤松前司貞村

昨日のこちんこ、じゃないや、こちこの話で思い出すのが、南方録の以下の記述。

青磁雲龍御水サシノ故実、休ノ物語ニ云、
永享ノ比、普広院殿御病中、禁裏ヨリ御園ノ御茶ツカハサレシ時、
鎌倉ナスヒ御茶入、花山ノ御天目、青磁雲龍ノ御水サシ、三種ヲツカハサル、
御本復ノ後、祝儀饗応ニ台子ノ御茶ナリシ、赤松前司貞村ニ御茶可仕由仰ヲカウフリ、
貞村ハ時ノ寵臣、コトニ才覚ノ人、茶式モ好テ、同朋達モ及ガタキホドノ茶人也、
世ニタグヒナキ美男十七・八歳ノ比ナリ、
折烏帽子ニ黒ユルシノ水干ニテ立ラレシト云

足利義教の病気本復の茶会を、寵臣の美少年、赤松貞村が行ったという記述。


赤松伊豆守貞村は、足利義教に寵愛され、嘉吉の乱の原因となった。男色の証拠はないけど、そう考えられていた人物。義教は元坊主にして源氏の長者だから、男色といわれてもまぁ仕方ない。


南方録の著者は、利休の談としてこれを書いた。つまり町人が男色を許容していて、且つ、美少年趣味を茶の湯に持ち込むことを肯定していた、と考えていた。
私は実山が武家衆道に理解があるだけで、町人文化としてはどうかな?と思っていたが、「こちこ」なんて銘を茶入にしていたんだから、室町の町人もあなどれないのかも。


ちなみに義教と貞村はほぼ同年齢。義教が籤引で将軍になり永享に改元したのは34歳くらいなので、この話はありえない。もっというと、貞村は伊豆守を他に譲ったという記録もないので、前司というのもおかしいかも。


しかし、義教の時代に台子が行われていた、という記述は茶の湯の創始を東山殿と珠光とする歴史観とは矛盾するのではないか?と思って読み返すと、南方録には東山殿に珠光が呼ばれて…という記述はない。珠光が茶の湯創始者である、という記述もない。

どうも南方録の史観では「広間の茶の湯は義教より前からあった」「ただし座敷飾りは義政の同朋衆が制定した」「四畳半は珠光が設計した」というだけで、義教より前の広間の茶、珠光より前の侘び茶に関しては特に定義も関心もなかった様に思えるな…。