茶道言行録7 茶掛

織部は、流れ圓悟を切断する際の依頼から、その墨跡を読めていなかった事が明らかになっている。

その織部の心得。

この古田織部は、跡部助佐衛門宛の傳書に、懸物を拝見する場合の心得をとき

一、文字かゝり候文字の心しらずとも眞實の道も此内に可有候かと眼を付て床がまちのきはへより候て拝見可有候

「意味判んなくても、そこに真実があると思って床のぎりぎりまで寄ってばっちり見ろ」という事なんだと思う。

こゝに「文字の心しらずとも」とあるのは最も重要であらう
これについての説明は「松浦鎭信書留」に織部を傳へて居る語が最も有力である。即ち、
古織曰

何事のおはしますかはしらねどもかたしけなさに涙こほるる

西行法師伊勢へ參宮してよみしとかや、此歌こそ茶湯の本意ならんといひし

織部ばかり一貫して「墨跡が読めなかった」エピソードで彩られているのはどういう事か?

でも「何事の」の句は、日本人の宗教観をよく現していると同時に、現代の茶掛けのポジションをよく言い表している気がする。

つまり茶掛のポジションは古来からずっと変わってないという事だよな。