茶人達の大阪の陣
木村宗喜がらみで、大阪冬と夏の陣で茶人がどうしていたか調べてみた。
古田織部。徳川方。
燕庵を剣仲に譲り出陣(とはいえ実は燕庵が正確にいつどうやって譲られたのか藪内家でも判らないらしい)。息子の一人は徳川方として討死。そこまで尽くしたのに戦後、豊臣方への内通疑惑で切腹。残った息子も切腹に連座。
金森宗和。
豊臣寄り中立。徳川寄りの親を非難。その結果廃嫡され宇治へ隠棲。
織田有楽斎。
最初は豊臣方。豊臣家客分として冬の陣では大阪城で和平交渉役。
但し夏の陣前に大阪城を退去し京都二条に隠棲する。息子の頼長は「息子のお前は徳川に付け」という有楽斎の保身術に反発し出家。一説には冬の陣に豊臣方として僧体で出陣したらしい。
上田宗箇。
徳川方の紀州浅野家家臣。夏の陣、樫原の戦いでは塙団衛門を待ちぶせし一番槍の功名。でも待ちぶせは暇だったんで竹藪で茶杓「敵がくれ」作ってた。
小堀遠州。
徳川方。備中代官で兵站を担当。ある意味徳川の勝利を支えたとも言える。大徳寺の江月宗玩に護身用種子島を送った。
片桐石州。
まだ10才。豊臣家重臣片桐且元の甥として大阪城に居たが、和平派として一族朗党と共に追放され冬の陣直前に退去。以後高槻に居たと思われる。
細川三斎。
夏の陣に参加。戦後豊臣についた息子興秋を切腹させている。
千家
夏の陣で堺は焼亡しているが、たぶん堺千家はもうなかった。
今井宗薫
冬の陣の頃に堺から逃げようとして紹鴎名物を没収された。
それぞれに様々な形でこの戦いに参加していたといえるし、宗和なんて大阪の戦が無かったら有名茶人になっていたかわからない。
茶史に結構影響あるんじゃね、大阪の陣。