慶長20年(1615年)。
大阪夏の陣の過程で堺は焼亡した。
堺が徳川方に協力的だったから豊臣方に放火されたのだという。

大阪城の南の平野が主戦場なのだから、小堀遠州が岡山で集めた兵糧は当然堺港に陸揚げされた筈。
豊臣方の処置は適切だったと思える。


では、その後の堺の復興がどうであったか。


ただ一つだけ言えるのは、この時期の唯一まとまった茶会記である松屋会記に、この時期以降明確に堺の茶人の所へ訪問した、という例が一つもない、という事である。

久好も久重も近所か、京都か、大名のところへ行っている。


わずかに残る元和元年(1615年)の津田宗凡の茶会記にも、堺で実施したものはない。

たぶん堺は、実質的に終わっていて、もう豪商が客を迎える様な場所ではなくなっていたのだろう。