川上不白 茶中茶外3 千家茶西東

川上不白の若い頃のお話。

京に如心斎、江戸に不白とは、その業績を讃えて後世の史家が並び称したのである。
(中略)
さて、不白、二十六の年を迎えた。
(中略)
師を離れ、一門を構えようと出かけたのが大阪である。
(中略)
一向に訪れる人がない。そこで大阪が駄目なら江戸がある。そう思って江戸の地を踏んだ。

前に読んだ「不白の跡を探ねて」
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20091005
はえらい違う流れであるが、ヤング不白は独立しようと江戸へ出た、という風に話は進む。

深川辺の裏長屋に居を構えて、茶道指南の看板をかかげた。
(中略)
でも、なかなかに声をかけてくれる人は現われない。否、江戸は大阪よりも、お茶には馴染が薄いのかも知れない。
(中略)
大阪で駄目、ああ、江戸でもまた駄目か。こうなっては、師匠、如心斎の許へ帰参を願うより外なかった。

そして不白の江戸進出第一回は大失敗。


不白の年表にこうある。

○二十三才。 七事式の茶法が編み出されるにあたり、ヤングエージの一人として、創案の席に連なった。

若くして業界横断の大プロジェクトに参加、気の利いた発言で存在感があった事に自信を付けて独立。そしたら元の会社の営業力や企業体力を自分の実力と勘違いしていたのに気付いた…みたいな話か。

○三十二才。 春、如心斎から千家茶道奥儀の伝授あり。

でも、「不白の跡を探ねて」の真台子伝授に七十三両掛かった話とかから考えて、32才までは、家とか藩とかの支援でやってきた人なんじゃないかなー。独立に失敗した人が家元修業し直した状態でそれだけの経済力があるってのは無理があると思う。

しかし26才で江戸で独立したという事は「まずは江戸で身を立てるんや。奥儀の伝授とかいらんわ」と思っていたとしか思えないな。