川上不白 茶中茶外2 表千家不白流

本書には宗順派復興への道。
つまり秋本宗意がんばる、な物語も収録されている。

宗順派は明治時代、近代数寄者の庇護の元?ブイブイ言わしていたが昭和6年頃、五代家元素蓮の死の後、婿養子の川上健が家元継承を嫌い行方不明になってしまった。

家元の消息は、戦争が終わっても不明であった。
それが、昭和二十六年の九月頃、芸術サロン社の高谷隆氏が、《茶人系譜大全》の正編につづいて、続編を出版することとなり、秋本宗意氏を訪れた。
そして、流儀はなにか。家元はどうなっているかなど、リストによる調査がはじまった。
《私達が家元とする浜町派は絶えました。昭和六年、表千家不白流六代を名乗る素蓮さんが亡くなられて以来、家元を継ぐ人は杜絶えてしまい、家元の判だけが、私達の手に残っています。実はその家元が存命中、後継者となる方はいるにはいましたが、家元となる意志を捨てて出ていきました……》
家元不在など語るのは、社中の一人として忍びないことであったが、ともかく、表千家不白流の燈は絶やさずに守って来たのである。
すると高谷氏のいうには《あなた方が家元とされている方は、川上健氏のことではありませんか。戦後、正編をつくるため京都へ出かけた折り、姉小路あたりにいることを耳にしました……》

そこで秋本宗意氏が川上健を捜し出し、生活を支え、家元復帰を支援しつづけていたのだが、雑誌「ゆきま」の赤字問題等が重なり、うっかり手元に預る家元印を社中の他人に渡してしまったとの事。すると:

社中といい、同人といい、尊いのは《家元の判》である。寄り集まってくるのは、錦のみ旗があるからである。それの所在する所が目当てである。
宗意氏は以後、無用の存在になることに気がつかなかった。それほど、大切な判を渡すのに、引き替え条件を出さなかったのは、あまりに淡泊すぎたのである。
(中略)
このようなもめごとがあったあと、家元の宗順氏が幹部の中村柳鶴氏を伴って来訪した。
(中略)
すると宗順氏は《あんたに、お金送ってくれとはいわなかった。……》送って来たのは勝手だといわんばかりであった。

家元との決裂により秋本宗意が独立したのが現 表千家不白流清風会の発端だという。


なんか下衆い話で気が滅入るわ……。和敬清寂とはかなり隔絶した世界なんやね。


ちなみに表千家不白流を名乗ったのは秋本宗意氏が考えたとの事。
江戸千家と名乗ると池之端派、弥生派と揉めそうだから、だとか。

分裂はここのお家芸なのかねぇ…。