川上不白 茶中茶外4 如心斎の死

如心斎の死により、不白は卒*1啄斎を養育する事になる。

宝暦元年(一七五一)不白三十三才。
(中略)
この時、後を継ぐべき長子与太郎、号宗員(のちの卒啄斎)は僅かに八才。
(中略)
法要をすましたその日から、卒啄斎の薫育の特訓を重ね、留まること実に四年。江戸の方は全く留守にしてしまったのである。

「法要をすましたその日から」というのは注目に値すると思う(後述)。

多くの門弟を擁している家柄が、キャップを失ったことによって迎える危険は、分裂とか分派となって現れるが、その危険を回避し、一層結束を固くするのは、統率者生前の徳望の如何にかかってくる。
まして、後継者が幼少である場合、野心家が跳梁して、思いのまま振舞う事例は、前史にあり、今世にもある。

複雑な現代江戸千家の事情を滲ましているようでもある。

生前、如心斎は、多くの協力者と、相談相手と、その上、鴻池家の鴻池善右衛門や三井家の三井八郎衛門など、富有町人宗の援助者に囲まれていた。
また門弟には川上不白、京洛には、多くの社中がおり、師家を見守る人達が控えていた。

本書の別の場所で語られている同門先輩に堀内宗心、久田宗悦、堀内仙鶴、住山楊甫がいる。
堀内宗心と堀内仙鶴が併記されているのはよく判らない。二代と初代か。

ここで私は疑問に思う。


前年に台子伝授を受けた様な、江戸に基盤のある筈の若僧が、これらの先輩をさしおいて、卒啄斎の養育を行ったのは何故だろう?

「法要をすましたその日から」四年も江戸には帰らない。つまり卒啄斎を置いて江戸に戻ったら、表千家は乗っ取られるおそれがあった、という事ではなかろうか?

そして堀内も久田も住山も、もちろん卒啄斎の叔父の一燈宗室も信用できないと不白は判断していた、という事なのではなかろうか?


まぁ一つだけ反論は考え付く。

表千家紀州徳川家の祿を喰んでいた。紀州徳川家に対するコネクションを維持し、対武家の礼儀作法を叩き込む為に、紀州徳川家に縁のある武家の不白が後見に立ったという可能性である。

でも不白がここまでメインに立たなくても別に構わない様な気がするんだよね…。

*1:実際には口+卒