茶の湯講座3 眞面目

お点前のうまい下手は茶事とは関係ないという話ではあるが、そもそも昭和11年頃、男は点前を習うのが恥ずかしかったらしい。

ところでおてまへと言ふものは男、男子の方でありますとなか/\やり難い。何か人前で殊更に藝事でもやると言ふふうな考へで却々實行し難いと言うふうに咸ずる人が随分多い樣である。

「男子たるもの」的な感覚だろうか?私は割と人前で点てるのを楽しめるのだが。

愈好斎の考える対策は:

併しそれは、さう言ふ譯のものでなくて段々とこれが流行と言ふと語弊があるかも知れませんが、多くの人々が眞面目にやつて來ると言ふことになれば前の考へとは反對に一つ腕を振つて見度いと言ふふうな考へを持たれるやうになるであらうと思ひます。

過度な一般化。

例へば野球と言ふものに就て考へて見ましても、あれはその昔二十年も前であれば、野球の樣な氣の長いあんなつまらないことをやつて居ると一般の人々は見てゐた。何故あんな廣いところで寒いのに半裸體になつて擂小木のやうなものを振廻し、大きな男が眞面目な顔をしえ球など抛つて居て、一向下らぬ事をやつて居るものだと、言ふ位に見て居たものが澤山あつた。つまり多數の人に理解を持たれてゐなかつたからである。
ところが今日なれば實に野球は第二の國技と言ふふうに非常に盛んになつて來て、大觀衆が驚喜して眺め、さうしてピツチヤーが一球を投げれば、觀衆は片唾を呑んでピツチヤーの美技を賞嘆するといふ次第で、其の中には、自分も何とかしてあのやうな腕前を振ひ度いと言ふ人が續々出て來る。
お茶でも本當にさう言ふふうに、眞面目にやつた人が段々と増えて來れば、あのおてまへの腕は實に素晴しい、俺も一つあゝ言ふふうにやつて見度いと言ふやうなことになつても、同じ譯であると思つて居ります。

逆に言うと、愈好斎は当時の弟子達がそれほど真面目にはお点前をやっていなかった、と思っていたのかもしれない。そして茶事でのお点前のうまい下手にも意味があると思っていたかも知れない。