茶 私の見方2 茶の道

柳宗悦の「茶の病ひ」より。

誰も「茶道」とは呼ぶが、今は「道」はどこかに匿れて、せい/゛\「茶の湯」があるに過ぎなくはないか。
東洋人は凡ての藝を道に高める要求が強く、弓術は弓道となり、劔術は劔道となり、活花は華道となり、同じやうに茶の湯を茶道に高めた。

東洋人、というより日本人だけじゃねーかなー。
中国人の考える「道」はまた違うもんだしね。

併し「道」は至道で、茶人なら誰でも近づき得るやうな安價なものではあるまい。
(中略)
それ故今行はれてゐるのは、せい/゛\「茶の湯」で、「茶道」にまで徹した「茶の湯」とは云へぬ。
茶の家元とか師匠とかを任じる人ゝが随分多いが、その大概はたか/゛\上手に茶事を行ふといふに過ぎなく、「道」をまで示す茶禮に高まってゐるとは思はれぬ。

茶道とかいってんじゃねーよ、お前らぐらいでよー、という、何というツンデレ

それが道に達する時、よく禪が云ゝされ、いつも「禪茶一味」が説かれる。
(中略)
今は無數の師匠がゐるが、そのうちの何人が、禪茶一味を解しおほせてゐるのであらう。誠に心もとない次第である。
(中略)
茶道などと大それたことを云はずに、もっと謙遜深く茶の湯ぐらゐで澤山なやうに思はれる。

私は禅は禅、茶は茶だと思うので、同感、かな。禅を出家して何年もやっている禅僧でも簡単に極められないのに、茶筅ぐるぐるしてたらその代用になるなんておかしいよね。

若い女達が一つのたしなみとして茶の湯を習ふことは甚だよいと私は思ふが、茶の作法に慣れると、ひとかどの茶人だと思ひこまれてはたまらない。
道はもっと厳格なものであり、深玄なもので、なま易しい修業では分らぬ。
特に心の修行が必要となると、點茶が上手になっただけでは、どうにもならぬ。
此頃のやうに安っぽく師匠の許しを輿へるやうでは、道が亂れる。

女性がどうこうは思わないが、これを読んでいて気付いた事がある。

剣道や弓道の道として目指す境地、というのはある程度イメージが湧く。
でも茶道には湧かない。少なくとも禅を援用しない限り。

目指す所のない道というのはない筈だから、やはり茶道、というのは言い過ぎなのかもしれない。