茶 私の見方5 箱書き

柳宗悦の「茶の病ひ」より。

このほか文字に依るものに箱書があって、作者のみならず、有名な茶人の極めなどのあるものが悦ばれる。
(中略)
併し注意しなければならないのは、かかる箱書を悦ぶことと、物そのものの美を悦ぶこととは別であって、箱書があると、直ちに物がよいと思ひ込んだり、又箱書がないと、もの足りなく感じたり、又箱書に便って始めて物を見たり、又それがないと物の良し惡しに不安を感じたり、更に箱書のない物を振り向かなかったりするやうになると、一つの弊害だと云ってよい。

柳は間違っていると思う。

茶人は、物の美が分からないから、箱書きに頼っているのではない。
物の美が分かった上で、物の美醜より箱書きの方がコストパフォーマンス高いので使っているのだと思う。

そういう意味で柳は夢想家で純粋な人なんだと思う。

今日のやうだと、箱書のために、寧ろ物を見る目が濁り、遂には物が見えなくなるやうなことが起る。
肝心なのは、物を先づぢかに見ることである。
だから、箱書が「茶」の歴史では、眼を曇らせて來たとも云へる。
(中略)
若し代ゝの茶人達がぢかに物を見てゐたら、茶器の歴史は、遥かに大きな發展を遂げてゐたであらう。
「大名物」に匹敵し得る新大名物を色ゝ選び出し得たに違ひない。

そういういいものが無かったから、遠州はしょっぱい道具を銘で飾ったのではないか?広沢手とか、冷静に見るとしょっぺーよ?でも鎖国しちゃって来ないんだもんよ。しょーがねーじゃん。