茶 私の見方4 銘

柳宗悦の「茶の病ひ」より。

茶人達は銘が好きである。
こゝで銘といふのは多くは二通りの意味があって、茶人が茶器につける固有名詞と器物に記された作者名とである。
茶人が器物に銘を輿へてその名で呼ぶのは、別に惡いわけはなく、他の支那と區別する上に便宜な點もあらう。
併しその名のつけ方は皆よいとか美しいとかは決して云へない。

と言うことで、柳の、銘に関する一家言。

人名のものは一番無難で、例へば井戸茶碗に「喜左衛門」とか「坂部」とか「宗及」とか呼ぶものがある。
やや陳腐だが「夕陽」とか「殘雪」とか「七夕」とか詩的な名をつけた茶器がある。
併し中には「うづくまる」だとか「さびすけ」など呼ばれるものがあって、銘が一種の遊びに堕ちたものがある。大體茶器にはさういふ銘が多いが、一種の思ひつきや駄洒落のやうなもので、餘り感心したものではない。

柳が考える銘は、

  1. 所持者名
  2. 詩的なもの
  3. こじつけ、遊びっぽいもの

最後のはお気に召さないらしい。

さういふ名のつけ方は、やがて「茶」の歴史を物語るものであって、當時の「茶」の内容がどんなものであったかが浮かぶ。
銘を調査し分類し、それを時代順に配列するとしたなら、きつと各時代の「茶」の風をさへ窺ふことが出來ると思ふが、それは恐らく堕落の跡を示すに過ぎまい。
必要があるならばやはり所持者名とか地名とかで呼ぶぐらゐが無難であらう。

つまり、室町末期の頃の所持者名が一番、という事。
そして遠州の様なポエミーな歌名はお嫌い、という事でもあろう。

そういえば柳は今遠州呼ばわりされて激怒した事がある。
柳は、利休達の様に美意識で器物を見出したい、とは思っていても、遠州の様に銘で器に箔を付けたい、とは思っていなかったという事だろう。
一貫した態度ではある。