茶 私の見方6 器物中心

柳宗悦の「茶の病ひ」より。

嘗て私が「茶道を想ふ」といふ一文を公にした時、私の見方が餘りにも器物中心だと云って詰られたことがある。
尤もその人は眼の利かない人であったが、想ふにその主張は、茶の湯は寧ろ心の天地に悠ゝ遊ぶことにあって、用ゐる器物はたとへ月並なものでも「茶」の心を味へばよく又それで充分味へるのだといふにあるらしい。

「柳の茶論が器物中心かどうか」という点と、「論敵が鑑定眼を持っているか」には関係がない。
反論の前に相手を貶めるのはアンフェアであり、また、「論敵に鑑定眼を要求する」柳が器物中心でしか考えていないと言われても文句は言えまい。

なるほど、器物の美が見えたとて、それですぐ茶人の資格がそなはるわけではない。
(中略)
だからと云って器物はどんなものでもよいかといふと、之も亦本當の「茶」からは遠い。

論旨のすり替えである。

だから器物の美しさに冷やかな人は「茶」を行ふ主要な資格を缺く。

勝手なレッテル貼りである。


結局柳はお茶を語るとき、どうにかして器物を中心に置かないと文章が組み立てられない。
結構な無理押ししてでも話をそっちへ持っていくのが、柳の文章の特徴であろうか。