茶 私の見方7 貧富

柳宗悦の「茶の病ひ」より。

茶禮に貧富の差はないはずである。
貧しい者とても「茶」をたしなむことが出來る。
(中略)
併し事實はどうであらうか。
(中略)
私の考へではさういふ茶會は金力が何よりも、ものをいふのであって、心の力が先立ってのことではあるまい。
金があって物を所持してゐたとて、その人が直ちに「茶」へのよい理解者であることを保障しない。
又、それが直ちに眼力の人であることを意味しない。

茶の湯は金持ちのものではない、と柳は言う。
道具の茶の人の割には、急に心を、とかいい始めたりもする。
これは「金持ち=目利き」とは限らない。民窯にもいい道具がある!という流れに持込みたいのだろう。

でもさぁ。
実際問題いい道具は高いし、安い道具はしょぼい。
金持ちの方がいい道具に触れられ、失敗も多数でき、目利きになれる可能性は高い。

もとより貧乏を極めたなら、之亦「茶」を行うことがむづかしくならう。
併し普通の庶民なら充分よい「茶」が行へる筈である。
何も名だゝたる名器がなければ、良い「茶」が行へぬとは限らぬ。
眼さへあるなら、無銘の品から、充分佳い品を選び出せよう。
(中略)
「茶」も亦「民の茶」でありたい。

民芸の道具だって、ほとんどの道具はやぼったいルーチンワークの産物。
いい道具はやはり高価だし、リーチや河井で茶ができるかというと微妙。

柳の空論は嫌いじゃないんだけど、「民芸」が茶の湯に影響力を持ち得なかった様に「民茶」もまた、茶の湯として成立するとは思えないんだよな。