茶 私の見方9 千家十職

柳宗悦の「茶の病ひ」より。

千家には十職なるものがあって、茶器をつくらせてゐるが、之も今は全く經濟的な相互關係に過ぎない。
何も工人達の獨創的仕事が切り開いた名聲ではなく、その十職といふ看板で商賣をしてゐるに過ぎない。
今日出來るものを見ると誠に陳腐な作に過ぎないものが多數を占める。
一種の獨占的企業體の如きものに仕上げて、くだらぬ作にまで箱書を添へて勿體をつける。

世の中、毎度毎度そんな凄いものが出来る事は保障されない。
千家十職そして同様の工芸一族のものであれば、少なくとも何代目の作、というのは保障されるんだぜ。

例へば今出來る「樂」の如き、實につまらぬ凡作だと云へよう。
それが大した値を呼ぶのである。不思議なからくりと云ふよりほかはない。

近代の楽焼がつまらない、というのは同感ではあるが、むしろ長次郎とのんこうが異常なのであって、そもそも楽焼とはつまらない焼物なのだと思う。


残念ながら?民芸は千家十職を駆逐できなかった。
客の眼が曇っていたから、ではない。

民芸の工人は正面から戦って千家十職をうち負かそうとは思わず、茶の湯に遠いものを量産する事に傾倒したからである。

そりゃそうだ。
茶人の眼にかなう一個の傑作茶道具を送り出すために、茶人の眼にかなわぬ&茶人以外には売れない様な茶道具を作り続けることなど、スポンサーでもいない限りできはしない。


「つまらなくない」当代の吉左衛門の茶碗を見て、柳はどう思うであろうか?

河井一族が河井寛次郎を看板に4代を数える様になっている事を、柳はどう思うであろうか?