茶 私の見方10 素人
柳宗悦の「茶の病ひ」より。
茶事に心得が出來ると、とかくやりたがることの一つは、茶器を作りたがることである。
おおっと耳が痛いぞ。
私のやうに殆ど諸國の窯場を見てゐる者の眼からすると、この茶趣味の介入ほど、窯を毒してゐるものはないのである。
(中略)
第一燒物は(他のどんな工藝の部門でもさうだが)素人の携わり得るものではなく、素地、釉薬、燒成その他、並ゝならぬ専門的知識や體驗を要するのであって、茶事を心得ることが、直ちによい燒物の出來る資格にはならぬ。
(中略)
たとへ本氣になって凡ての仕事を擲って少しぐらゐ茶心や知識があったとて何の力になるであらう。
正論である。
…でもやってみたいんだもーん。
唐物の茶入にしろ、朝鮮の茶碗にしろ、凡てが雑器民器で、決して元來は茶器でなかったといふことを、ゆめ忘れてはならぬ。
唐物茶入が元来なんだったか分からんが、例えば薬の容器だとして、大量に生産された薬の容器のうち、出来のいいものだけが茶入に転用されたのだと思う。
茶入として見出される以外の容器を、現代でも薬の容器などの商品として成立させることができるなら、「元来は茶器でなかったものを転用」する事もできようが、そうでない以上、「茶器として狙って作る」しかないではないか。
それに茶人が関与することに意味があるか、は別の話だろう。