茶 私の見方11 貧富

鈴木大拙の「茶の哲學」より。

茶の極意に達せんとするには、貧の何ものたるかを知らなくてはならぬ。
只貧を守るだけでは駄目、貧の極意に徹しなくてはならぬ。
貧に安んずるといってもいけない。
貧の哲學なるものを持たなくてはならぬ。
貧の哲學が茶の哲學である。

わけがわからないよ。

貧の極意は、個――絶對個――の意義を看取するところに在る。

やっぱりわけがわからないよ。

富める人には同じものを一つ以上も持つことができよう。
彼はこの器で大宴會を催すことも可能である。
貧しきものには、一つのかけ茶碗だけしかない。
これで何もかも辨ずるのである。
この一が貧しきものの天地である。
彼はかけがへを持たぬ。
彼の生活は絶對である。
彼がこの茶碗を取り上げて茶をすゝるとき、「寥寥たる天地」そのものがすゝられるのである。
茶は絶對の個一に徹するとき始めてその眞味を味わひ得ると、自分は考える。
富める者は、這裡の消息に通じ得ぬ。

富者が茶人を極めるのはラクダが躙り口を潜るより難しい、とでも言うんだろうか?
禅なんだかキリスト教なんだかわからないインチキ臭さがたまらん。

無一物の人がお茶をする事による覚悟は、富める人よりも強い、とでもいいたいのだろうけれども、観念的に過ぎる。

そもそもお金の有る無し程度の世俗を超越できなくって、なんのお茶よ。