禅茶録1 茶事は禪道を宗とする事
喫茶に禪道を主とするは紫野の一休禪師より事起これり。
(中略)
故に一切茶事にて行ひ用ふる所禪道に異ならず。
とりあえず利休→珠光史観で禅茶録は開始される。
茶事での全ての方法論は、禅に違わない、という文章は、一見山上宗二の主張に等しいようで、実は違っているのではないか?
茶道の作法が禅の要件を満たしている、とは言っているが、ただそれだけでしかないのではないか?
つまり茶=禅なので茶を極めれば禅も学べるよ、的な無理は言っていないのではなかろうか?
無賓主の茶、體用、露地、數奇、侘、此等の名義を初として此他一々禪意に非るはなし。
委曲は末に發揚すべし。
細かい部分だが、露地、という用語からして、南方録の影響は皆無ではなさそうである。
されば奇貨珍寶を愛し、酒食の精好を擇び、或は茶室を結構し、庭の樹石を翫て遊樂の設となすは茶道の原意に違へり。
ここも一見、「いろいろな贅沢するのは茶道と違いますよ」と言っている様にも思えるが、多分違うのではないか?
禅としての茶の湯の原意には違う、という事は、必ずしも贅沢な茶を否定していない気がする。
なぜそう思ったかと言うと:
只偏に禪茶を甘んじ修行せんこそ吾道の本懐たらめ。
點茶は全く禪法にして自性を了解するの工夫なり。
禅⊃茶であって、禅の修行の一環として茶の湯は無意味じゃないよ、という事を言っているからである。
南方録が茶の湯の、禅への優越を語っているのに対し、禅茶録は禅の茶の湯への優越を語っている気がする。
そういう意味では本書の著者はすごくバランス感覚の正常な人なんだろうと思える。
いやいや、それって実は凄い事なんだぜ。