禅茶録2 茶事修行の事
夫、茶の原意は器の善悪を擇はず、點ずる折の容態を論ぜず、只茶器を扱ふ三昧に入て本性を觀ずる修行なり。
扨、茶事に託して自性を求むるの工夫は他にあらず、主一無適の一心をもって茶器を扱ふ三昧の義なり。
設便(タトヘバ)茶杓扱はんとならば、其茶杓へのみ純ら心を打入て餘事を微も想はず始終扱ふ事なり。
茶は器の善し悪しでも、点てる格好の良さでもなく、修行なのだ、という解釈は面白い。
そしてその修行法は、その道具のことに心を込め、他の事は一切考えず道具を扱うという事。
なお本文の後半には、ちゃんとこう書いてある。
扨、茶器の扱ひをもって本性を觀ずるは直に坐禅工夫の教なり。
無心になる、というよりは一心に思う。そういう禅風なのだろう。
又其扱ふ器物を置きはてゝ手を放ち曳時、心はすこしも放たずして次に扱んとする他の器物へ其まゝ心を寄せ寫して何處までも氣を縦(ユル)べず、形の如くにして點するを氣續立(キツゝケタテ)とは云へり。
只茶三昧の行ひなり。
道具を置く→次の道具へ手を向かわせる→次の道具を取る。
というのが茶の湯の当然のアクションだが、本書では
道具へ意識を置く→次の道具へ意識を注ぐ
という意識の流れとしている。
これだと神経張り詰めっぱなしで、緊張感アリ過ぎのお茶になりそうな気もする。
了解は其人の志に由りて強(アナガチ)に年月を渉るに及はじ。
只起一念の深淺に在べければ、ひたすらこゝろを専にし、志を致して茶處の三昧修行こそ勤むべけれ。
茶の湯の年月が問題じゃなく、志とやる気なんだよ、と言っている。
若干狂信物狂い茶の湯になり兼ねない気もするが、禅的にはそれでもいいのかもしれない。