禅茶録3 茶の意の事

さて、茶意と禅について。

茶意は即禪意也。
故に禪意を舎(オキ)て外に茶意なく、禪味を知らざれば茶味も知られず。
然るを世俗に茶意とするは一箇の趣を立るをいへり。

茶の心は禅である、なのに、世俗では茶の心は趣きを立てることになってしまっている、と著者は嘆く。

其たてたる趣、眞の禪茶意と認て證入したる氣色面に見れ、増上慢を生じて妄に人を誹謗し、世上の茶人皆茶意を知らずと言なし或は云て茶意は詞をもって説べからず、容をもって教べからず、己れと觀じて領解せよとて此を教外別傳なりとおもひ、獨り覺たる邪見を起す。
是皆趣のなす業なり。

「世の中の人は茶をわかってないなぁ」
「お茶は言葉や形で教えられるものじゃないですよ」

などと悟った風な事を言う事すら、増上慢、邪見として攻撃している。ということは、そういった事すら言わないのが茶の心ですよ、という事だろうか。

凡て趣は一切の物を執して心を動し、思慮作意を用いる意なれば、侘をもって心を動すゆゑに奢を生じ、器物をもって心を動かすゆゑに寸法を生じ、數奇をもって心を動すゆゑ好ミを生じ、自然をもって心を動すゆゑ邪法を生ず。
如是心を動すは皆悪趣の因なり。

沢庵の不動智神妙録の心の置所にちょっと似た文かも。

侘びが奢りに変わるのは、無闇にへりくだるからだろうか。
器物をもって心を動かすから寸法が生じる、というのは。南方録の曲尺割への批判の様な気がする。
好みが生じるのはいけない事なのかよくわからない。
自然が邪法になるというのは、どういう魔術の産物なのだろうか。

ただ、心が動かないようにしなさい、というのが肝なわけね。


しかし、心が動かないという事は、禅茶って客にとって面白くもなんともねー可能性が……。