禅茶録4 禅茶器

禅茶で使う道具について。

禪茶の器物は美器に非ず。珍器に非ず。寶器に非ず。舊器に非ず。
圓虚清浄の一心をもって器とするなり。
この一心清浄を器として扱うが禪機の茶なり。
されば名物などいひて世に賞翫する茶器は貴ぶに足ず。

名物や高価な道具がいいわけではない、といいたいのは分かるが、一心清浄を器として扱う、の意味が分からない。
清潔ならなんでもいい、という事だろうか?ならば名物や高価な道具でもいい気がする。

抑一心の器は人の作意陶鋳する物にあらず、天地自然の器なれば、陰陽暉月森羅萬象百界千如も同じ理を具足して、亮朗と月の照すに等しき虚霊不昧の佛心なるを己として煩惱の雲を起し、眞如の光を蔽ひ、五塵に染りて放に情欲を生じ、貪嗔痴の三毒を發して一心清浄遂に變じて三毒の器を成就す。

仏教というよりなんか道教的な文章。

一心の器に相対する抑一心の器は、三毒の器を成就す、というのはわからないけどわからなくもない。
天地自然の器というのが人の作意陶鋳する物に対し悪の様に言われているのがよくわからない。
江戸時代は天地自然というのは悪だったのだろうか?

でもなー。おれ脅迫型CM嫌いなの。ファブリーズとか。

惡によれば惡所へおもむき、善をこのめば善所へおもむく道理なれば、ひとへに勇猛心を奮起し、懇に禪茶の工夫をつくさば現世には王者之牢獄をまぬがれ、死しては三途之門戸を杜(トザシ)、升天得道疑ひあるまじ。
如是成就したるを天地同一圓照清浄の寶器とす。此を禪茶の器と稱す。

では、結局どういう器を使えばいいのか?

この文章見てもさっぱりわからない。

禅の修行を極めた人間が工夫すればどんな器でも大丈夫なのだろうか?
しかし茶の湯は禅の修行の一部であるなら、茶の湯を極めなければ禅茶の器とはならない、という矛盾が有る気がする。

弊害を力説したいがあまり、解決策に具体性を欠いた例、とでも思うしかないかもしれない。