禅茶録5 侘の事

侘の一字は茶道に於て重じ用ひて持戒となせり。

室町の茶の湯では「侘び」は貧乏という意味でしかなかった事を考えると、江戸後期では「侘び」が価値観にまで昇華されたことがよくわかる。

然るを俗輩陽(ウハベ)の容態は侘を假て、陰(ウチ)には更に侘びる意なし。
故に形は侘たる一茶齋に許多の黄金を費耗し、陳奇の磁器に田園を換て賓客に衒し、此を侘風流なりと唱ふるは抑何の所謂ぞや。

やや定型的な批判ではある。

では正しい侘びとは:

其不自由なるも不自由なりとおもふ念を不生、不足も不足の念を起さず、不調も不調の念を抱かぬを侘なりと心得べきなり。

ちょっと不思議なのは、無とか有とかならば絶対的な値なのに、不自由や不足は相対的な感想でしかないこと。

そして不自由を不自由と思わなければ不自由でないので、その人は不自由でない人になっていてつまり不自由とは思うはずがないという事。

つまり金を持ってなくても不自由ではない、と思ったら侘びだが、金が無くて不自由だ、と思ったら侘びではない事。そして金を持っていても不自由だ、と思ったら侘びではない。

ここまではいいとして、金を持っていて不自由ではない、と思っても侘びになってしまうのはどうなのだろうか?

其不自由を不自由と思ひ、不足をも不足と愁ひ、調はざるも調はざると訟へなば是侘に非ずして實の貧人と言べし。

ついに侘びという価値観は、もとの貧乏という言葉から隔絶し、別個の価値になってしまったのだなぁ。