禅茶録6 茶事變化の事

茶事に變化の義有て、南方録に道具器物の置方、手前のさばきかた、師傳萬端にして遁るゝ所なくして根本の規矩陰陽の秘事に至るまで覺へ盡す時は、千變萬化自由自在なりとあれど、かくては規矩の外に出て規矩に符(カナ)ふを變化と思へり。

禅茶録は文政11年(1828年)の出版物。
茶湯一会集の成立の30年前。もう世間一般に南方録が浸透していた事が分かる。
南方録が書写じゃなく刊行された時期が全然わかんないんだけどな。

規矩や点前を教わって極めれば、その法則にしたがえば変化もできるけど、そうじゃなくて法則の外で法則にしたがう変化もあるんだよ、と言っているわけかな?

是作意を假り、思慮に渉りて變化の自然に非ず。
吾道ハ否(シカ)らず、自然の機に徇て規矩にも心を置ず、其變じたるにも心をとめずして行ひゆくを變化の妙用とす。
設(モシ)功思を用ふる時は何ほど能工夫を施すとも皆私趣に落て自然の妙機に違へり。

規矩にも変化にもとにかく心を動かさないのがコツらしい。
そして意志を持って変化を与えた場合は皆私趣に堕すという事か。

夫變化は天地氣化の自然に生じて此を人身に稟受し、自在に運動活用する謂なれば、此理を推て茶場に入とも又、天機自張に任じ、自智を廢して空寂虚静直に前んで始終を遂べし。

心は動かさず作意も出さず、天地自然に従う…というのはやはり道教的ではあるが、それ以前に「できる人の理屈」だよね。