禅茶録7 數奇の事

世上の茶人、好の字に意を用て、或は好み道具など稱して玩弄するに至る。
されど元來此文字は物好に落在すとて嫌ふ事にて、數奇の文字を用ふとてなり。

すきという文字に好きでなく数奇をあてたのは、好きに堕す事を避けるためというが、かなり辛いいいわけだ。
どう字をあててもすきという動機に違いはないからだ。
これが「数を寄せる」とか別の語源があるなら別なのだが。

云凡數奇の零餘を奇とふ。偏にして物の相具らざる躰なるべし。
誠に是茶の湯の本躰なるべし。

あて字に意味が出すぎてしまっている。
数奇は本来不幸せを意味するが、その漢字に数寄の意味が引っ張られた形か。

…あと数寄の立場がない気がする。

人として世に偶せず、俗に伴なはず、調たるを不好不如意をもって樂みとす。
是一奇の屋人數奇者と稱す。
家屋にしては松の柱、竹の楹(タルキ)、曲直方圓なるに任せて上下左右として、新古輕重長短廣狭、或は闕たるを補ひ、敗れたるを綴り、兎にも角にも偶することなし。
一奇器物數奇道具と是を稱す。

残念ながらこの言い方では、金持数寄者ががんばって作った奇矯な茶室が正当化できてしまう気がするのだが如何だろうか?

其作用差能配合に及び、奇にして偶せざること不可勝。
又奇偶一同、奇も又偶、々も又奇、環の無端の至るをいはゞ筆舌を勞するに不及。

これ以降は南方録の道具の丁半と関係が有るようでないような文章と、所謂「好み物」批判が続く。

禅茶器の話をしたんだから、数寄には拘らない方がよかったんじゃないかなー。