禅茶録9 體用の事
今回は:
茶道に體用の義あり。
世俗にては設便(タトヘ)ば器を扱ふに釜或は水指などの凡て動さゞる器を體用とし、茶杓茶入などの動し扱ふ器を用とす。
又躰用不離の義ありて、水指釜などは躰の道具なれど、持運び動す時は用となり、茶入茶杓などは用に屬すれど餝り置時は躰となるなり。
動くものと動かないもののお話。
されど是等を躰用となさば道において何の益なからん。
本意は否らず。
でも、そういう区別して何が意味が有るというのか?
だってこれ、お茶の「作法」の本じゃないんだぜ。
禪と茶の二を別て體用とす。又不離の旨も殊なり。
だが、禅と茶の関係も体用だという。
では禅が動かない時茶は動き…と言うような働きはあるのだろうか?
元來點茶に禪意を加へて禪味茶味同味なれば是一にして二、二にして一、一心不動にして空寂を主とするは躰也。
肢體を活動し、舉止坐立するは用なり。
(中略)
只茶事の行ひにあらはし示して佛心に至らしむる教也。
うーむ。禅が体で茶が動、というだけのことか。
わざわざ書く程の事でもないような。
思い付きからうまい事を言おうとして論旨を膨らましそこねている感じはする。