禅茶録10 無賓主の茶の事

禅茶録最後の章。禅茶録と言えば「無賓主」という程のテーマ。

利休大秘事の無賓主の茶の湯とて南方録に出て大秘事底に於ては水石草木草庵諸具共に一箇に打破り去て、無事安心一樣の白露地是利休大居士明傳の大道とすべし。
此一段をもって會得すべしと有。

厳密に言うと南方録自体には無賓主の茶の湯の話は出ていない。立花実山の壺中炉談の方に出ている用語である。

されど是無賓主の茶に非ず。
若茶事一切打破し竟(ヲハ)らば茶道は廢して地に落べし。
かくては茶の詮なく、又打破し去の文を省かば無の一字處する所なうして常に行ふ俗茶なり。

しかし、実山の無賓主の茶を、禅茶録は俗茶として否定する。

又雪の茶、花の茶、月の茶、柴火の茶、打死の茶、出陣の茶など名を設る類の一箇の茶にて、別に無賓主と稱する物に非ず。

死出陣などは置いといて、雪の茶などは南方録も紹介するものである。
しかし、これらは趣向の茶だから、禅の茶でなく、当然無賓主の茶でもないということか。

且是を大秘事底として秘訣する謂もなし。
又師傳受記悉く終わりて更に學ぶべき業にもあらず。
抑無賓主の茶とて他術なし。
即禪茶の常事なり。
設(モシ)無の一字を添ざれば俗茶にて全く遊興の戯に落べし。

遊興でない禅茶には無賓主の茶があって、それは秘密でもなんでもないと著者は言う。

故に禪茶の門に入らば行住坐臥共に力(ツト)め行ひて機を忘るゝ場まで偏に工夫を用ふべきなり。決て秘事底となすべからず。
又開き示さん方もなければ修行三昧に入て自得する期を須(マタ)んより外なし。

そして禅茶に至るには禅をしなければいけない、と著者は説く。


ここ含む総括は明日。