茶の湯のしるべ2 茶人

上代の茶史に関しては妙に詳しい本書だが、茶人に関してはちと古くさい。

この銀閣へ閑居しました頃、義政の朋友達は、珠光に就いて茶を説かれ
(中略)
その人達は誰々かと申しますと、春鴎斎、眞能學叟、眞藝、鑑岳眞相、又津田宗達今井宗久等でございます。

宗久はもちろん、宗達も珠光の生存時期にお茶はできないと思う。

彼の有名な千宗易即ち利休は、この時紹鴎の門下から出たのでございます。

利休紹鴎門下説か。

天正十六年子爵聚樂の館へ、時の帝が行幸なされました時に、風流の道に長じた利休を昇進させやうと思ひまして、薦められたのでございますが、堅く之を辞退しました利休は、その後古渓和尚に參禪しまして、遂に利休居士となったのでございます。

割と珍しい、利休号が禁中茶会の後説。
利休号はあくまでも政治的なものでないと言いたいのか。

その後になりまして、豊太閤と意合はずなりましたので、堺に蟄居の身となりました。
そして七十四歳の時に、事情あつて自刃したのでございます。

事情あってというのはどういう事か。
利休を政治的な存在にしたくなかったのだろうか。

宗淳は利休の二男でございまして
(中略)
天正十五年七月朔日に長男即ち兄の道安が、利休よりも先に死去しましたので

道安夭折説。


茶史が(当時としては)最新の研究をベースにしているのに、茶人に関しては説が古くさいのは、あくまでも口伝を遵守した為だと思う。
茶史と違って茶人に関しては往来の風説の方が強かったんだろうね。