茶道爐邊夜話3 利休以前の茶の湯/利休の茶の湯
規則や約束、習慣等で縛られて難しく云はれて居る事も、其の起源は存外の處や思ひ設けぬ方向にあつたり、それから轉化したものが數々ある。
然し起源が惡いから、或は他にあるとしても、現行のものが洗練され優れて居る場合には、これは何等問題にするにも足りない。
一方、現行のものに格式を持たせる為めや、殊更に美化せんが為めに附會の説迄建てる要もない。そして更にそれを現代の道徳に迄結びつけるのは、我佛尊しとする事大思想や、封建時代の老人の考ではなからうか。
「これこれこうするのは陰陽五行で」みたいな事が原因でなく、意外にしょうもない思い付きが流行した、というのは茶書にも幾つか例がある。
南方録がいかん、という気もする。
しかし。
茶の湯にしても、現在行はれて居るのは、茶聖利休に依つて大成された完全なもので、殊更これに箔をつけずとも立派な藝術であり教養であり趣味であるから、餘り變な色付や化粧は、邪魔にこそなれ、役には立たぬのである。
現在の茶の湯は利休が大成した完全なもの、という思想は不思議だ。
もしかすると著者は、当時の創作点前に対し不満があっただけなのかもしれない。
要するに利休は趣味、研究として茶の湯に入り、信長、秀吉の顧問乃至遊び友達となつたが、餘り門弟が増加するので、一定の規則を造つて、それを統一して置く方が、教授に便利であるばかりでなく、習ふ方も都合が良いので、色んな難しい約束が生まれたのであると思ふ。
この発想は正しい気がする。
利休は「その人その人のお茶」を指向していても、いざ教えるとなると大変だし、しかも弟子達は、弟子同志で「自分のお茶が正しい」とかバトルしそうな武士だらけ。
ある程度標準化しないと(効率的には)伝授できなかったろう。
結局利休の茶の湯の今日傳はつて居る所は、最も窮屈な面白くない部分のみで、其の主部を占める應事接物の用などは、書物には殘つて居るが、一寸忘れられた貌ではあるまいか。
いいじゃん。利休の茶の湯のおもろいとこが現代に伝わってないならそれはそれで。
利休の茶の湯のおもろいとこは室町時代だから面白かっただけかもしんないので、現代の茶の湯を面白くした方がお得かもよ。