茶道爐邊夜話6 昭和の茶

現代の茶の湯を貶す人は、茶は宗旦に歸れ、利休に歸れと盛んに論じて居るが、宗旦の閑寂な茶も結構、利休の和敬静寂を標語とした茶三昧も有難いものには相違ない。
然し南坊録を始め古文書を繙き、それを聖書の如く解釋し、現代に其の儘用ひ樣とするのは、其所に時代を解しない矛盾を來さないであらうか。
弘法大師の名言の如く、宜しく其の時勢に従ふべしで、天正には天正の茶、元禄には元禄の茶があるが如く、昭和の御代には昭和の茶があると思はれる。

無理して復古しなくていいのではないか?昭和には昭和の茶があるよ…という正論には、頷かざるを得ない。

私をして云はしめるならば種々の茶の湯もあるが、其の主流をなすものは、起居動作の洗練法としての茶の湯と、享樂、趣味としての茶の湯の二つの流であると思ふ。

昭和の茶の湯の主流には二つあるという。

一つ目は:

起居動作の洗練としての茶の湯と云ふのは、或は極端の嫌はあるかも知れないが、専ら婦女子のやつて居る手前即ち點茶手續を主とした茶の湯で、個人の唱えた茶道の精神など難解なものは全然忘れ點茶法に終始し、足の運びは如何の、柄杓が五分上つて居る下つて居ると云つて、數百年洗練された點茶法を其の儘鵜呑みにする方法ではあるが、起居動作の美しくなると共に、無駄の無い手續は、日常生活の上に非常に役立つもので、或は利休は考へて居なかつたかも知れないが、
(後略)

女性を中心とした精神性のないお点前の茶。

次は趣味としての茶の湯で、自分の身分、境遇、趣味に活きる茶で、親しき友と打ち揃ひ、寄附で俗塵を拂い、露路で閑寂の境に入り、(中略)
道具を賞玩し、瞹々裡に一會を樂しむと云つた處に目標をおくものである。
これは主として男子の行ふ茶で、殊に社會的大活動する人々が小閑を造つて、活動の原動力を養ふに用ひられて居るものである。

もう一つは、社会人の男のゴルフ趣味的なお茶。


あるぇー?

これやと利休や宗旦の昔に戻った方がええんちゃうん?全然あかんがな。